平安座島

平安座島(へんざじま)
 与勝(よかつ)半島と海中道路でつながった周囲7kmの島。戦前までは海上交易の中継地として知られていました。海中道路は、巨大な石油基地が進出した見返りとしてつくられたもので、島には近代的な石油コンビナートが立ち並び、異様な感じをただよわせています。集落は南側の平野の海岸沿いに押し込められたようにかたまっています。壇の浦の合戦で破れた平家の残党が安徳天皇を奉じて、この島に落ち延びたことから島の名前(平安座)がついたという伝説があります。

海中道路
 勝連(かつれん)半島と平安座島(へんざじま)を結ぶ全長4・75kmの県道で、遠浅の海に土手を築いて造られた道で「海中道路」としては東洋一の規模を誇ります。
 海の上を一直線に走る美しい道路に、左右に広がる青い海はまさに絶景です。風光明媚なポイントなので「海上を走る滑走路」とも「あやはし」(美しい橋)とも呼ばれ、絶好のドライブコースとなっています。この道路を使い平安座島(へんざじま)、浜比嘉島(はまひがじま)、宮城島(みやぎじま)、伊計島(いけいじま)へ渡ることができます。
  戦前、海中道路が出来る以前は、平安座島と勝連半島との行き来に、足の長い竹馬を使ったり、サバニという沖縄の伝統的な舟を使っていたそうです。終戦後、干潮時に米軍の水陸両用車やトラックを使って往来をし、これが海の中を走ることから「海中道路」と名付けられたようです。その後、地元住民が浅瀬に土を盛って堤防道路を造り、後に、国の事業として現在の海中道路と周辺施設が整備されました。
戦前戦中戦後にかけて、平安座の人々、屋慶名と往来する船のことを、渡し番と呼んでいました。干潮時には歩いて渡れることから約4キロの干潟を歩いて渡っていました。竹馬で渡った話は聞いたことがありません。多分久米島の奥武島の竹馬の話と混同していないでしょうか。また、海中道路については、戦後米軍払い下げのトラックを改造して干潮時には屋慶名・平安座間を住民の足として「海上トラック」が走っていました。「海の中を走ることから海中道路と名付けられた」のではありません。島から本島へ道を造ろうという意識が芽生え、海中に延びる道として海中道路と自然に呼ばれるようになったものです。海中道路つくろうという意欲で島の人たちは何度かチャレンジしていますが、800メートルほど進んだところで台風で流されています。それでもあきらめずにコンクリートで約200mほど進んでしばらく中断していました。島にガルフ社が進出してきた時の島の人の条件は、海中道路の建設でした。海中道路はガルフ社の負担で建設され、その後村道として管理されていました。勝連町の浜比嘉島に架橋するために、海中道路は県道へと格上げされ、沖縄県によって現在のような4車線道路に整備されています。
 現在の海中道路は、南側の海に干潟や藻場が広がり、多くの人が海水浴や潮干狩りに訪れ、水深の深い北側では釣りやウィンドサーフィン、カイトボーディングなどのマリンスポーツを楽しむ人たちで賑わいをみせています。
「あやはし」(美しい橋)
 赤い橋脚が印象的な吊り橋で、海中道路のシンボル的な存在であり、景観が素晴らしいところです。
  海中道路の中間地点には、公園とトイレ、シャワー等の設備や300台収容の駐車場を組み合わせたロードパークがあり、2003年4月には『海の駅あやはし館』がオープンしました。1階は地元でとれた野菜や魚介類、お土産などを販売する物産館、金武湾(きんわん)を臨むレストランも併設しています。2階は勝連半島を中心とした海運の歴史を展示した海の文化資料館となっていて、山原(ヤンバル)船や、貿易や運搬に利用されていたマーラン船の模型をみることができます。